(101) 句読点の扱い

tsukene2008-05-18

大家、『、』て書いた。

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 ブログを始めた頃は、冒頭の回文が主役で、「続きを読む」以降は脇役という位置付けだったんですが、続けているうちに、あとの文章がメインで回文はそれのフリ、みたいのが増えてきたのはよろしくない傾向だなあと思いつつ、今回のもそのパターンでありまして、回文の意図がよく分からない方は、どうぞこのあとの文章をお読み下さい。


 回文のルールに関するお話です。

 回文とは、「上から読んでも下から読んでも同じ文」だと説明されます。でも、「下から読む」とか「同じ」っていうのはどういう意味なのかを改めて考えてみると、いろいろと厄介な問題がありまして、実際、人によって解釈がまちまちです。ある人が自分のルールで回文だと認めるものが、別の人の回文作成ルールからは外れている、という状況がしばしばあります。そういうわけで、自分がどういうルールに則って回文を作っているのかとか、世の中にどういうルールが存在していて自分のルールがそこからどのくらい外れているのかというようなことを考えるのには、それなりに意味があるのではないかと思います。

 大雑把に言って、「上から読んでも下から読んでも同じ」には2通りの解釈がありまして、それは

  • 文字列を逆から辿っても同じになる
  • 音を逆から辿っても同じになる

というものです。たとえば
  苦は吐く
は、仮名書きにすると「くははく」となるので、文字列で見ると確かに逆さ読みが同じになるけど、音の上では「くわはく」と読むから同じではありません。逆に
  苦は湧く
は、仮名書きでは「くはわく」ですが、音の上では「くわわく」だから、音で見ると回文だ、ということになります。このブログで採用しているのは、前者の「文字ルール」の方です。「文字ルール」と「音ルール」の差については面白い点が多々ありますが、それについては次回以降に書くことにして、今回は「文字ルール」について、くだくだと考えることにします。


 文字ルールとは

  • 回文とは、文字列を逆から辿っても同じになる文。

ということですが、これをもう少し細かく考えてみよう、というのが今回の主題です。たとえば「竹やぶ焼けた」は誰にとっても回文でしょうが、文字列を逆から辿ると「たけ焼ぶや竹」じゃね?と文句をつける人がいるかもしれないので、おそらくこう表した方が適当です。

  • 回文とは、仮名書きしたものを逆から辿っても同じになる文。*1

ところがこのルールには少し疑問があります。「竹やぶ、焼けた。」はどうするか、という問題で……どーでもいいですか。どーでもいいですね。でも自分にとってはたまにどーでもよくないことがあるんですよ。

 「竹やぶ、焼けた。」は仮名書きすると「たけやぶ、やけた。」でしょうねえ。文字列を逆から辿ると「。たけや、ぶやけた」となって同じじゃないんじゃないかという……非常にどーでもいいですが、これを回文と見なすために、次のようなルールを採りたくなります。

  • 回文とは、句読点や括弧など記号類を無視した上で仮名書きしたとき、それを逆から辿っても同じになる文。

ところがこれは少し困ったことを引き起こすのでして、たとえば
  大家、『、』と書いた。
なる文を、記号類を無視して仮名書きすると「たいかとかいた」となり、これは回文なわけですが、この『、』は無視したくないですよね。回文とは見なしたくない。……どーでもいい気がしますが、とにかく回避策を考えてみます。

 たとえばこれはどうでしょうか。

  • 回文とは、仮名書きしたとき、句読点や括弧など記号類を無視した上で、それを逆から辿っても同じになる文。

仮名書きと記号類無視の順序を入れ替えました。すると
  大家、『、』と書いた。
の仮名書きは「たいか、てんとかいた。」などとなって、これは回文ではない、とめでたく結論づけられそうです。しかしながら、これでやり始めてみると、一体何を基準にどこを仮名書きにすべきなのか、という問題が自然に生じます。たとえば「竹やぶ、焼けた。」の仮名書きは「たけやぶてんやけたまる」なんじゃないかとか。そういうわけで、もう少し深く考える必要があります。

 「大家、『、』と書いた。」の一つめの読点と二つめの読点には、何がしかの質的な違いがあるように思われます。一つめの読点は省けるけど二つめは省きようがないとか。その差はどこから来るかというと、一つめの読点は書き手の意図を分かりやすくするための補助記号であるが二つめはそうではない、ということです。「大家、『、』と書いた。」は、本当は「大家、と書いた」でもよいわけですが、これでは意味が分かりにくいから、いろいろと補助的な記号を補って読みやすくしてあるんだと見ることができます。この点を考慮すると、「文字ルール」は

  • 回文とは、文意を分かりやすくするための補助的な記号を省いた上で仮名書きにしたとき、それを逆から辿っても同じになる文。

と表現できそうです。

 もちろんこれでも、ある文が回文か否かをきっちり弁別できるわけではありません。たとえば「竹やぶ、焼けた。」の読点が「文意を分かりやすくするための補助的な記号」であるかどうかは文脈によるため判断不能なので、これの仮名書きが「たけやぶやけた」なのか「たけやぶてんやけたまる」なのかは分かりません。けれど、そこは例の「読みの強制」がはたらくので、それが回文であると主張されたら、「そうか『たけやぶてんやけたまる』ではなく『たけやぶやけた』なのだな、だから回文だと言えるのか」と考えることになります。

 というのが、現時点で自分が考えている回文の「文字ルール」での句読点の扱いです。と言っても、これですべてが説明できるわけではなくて、「藤岡弘、」など混沌とした文字世界に完全に対応するのはおそらく不可能です。そういう混沌を扱うのが言葉遊びの一つの醍醐味でもありましょうが、ここではとりあえず、「文字ルール」での句読点の考えかたの基準を一つ提示した、という感じです。


 一方「音ルール」では、どこを発音してどこを発音しないかを考えればよいので、句読点については「文字ルール」よりも話がクリアーになります。ただし「音ルール」にもその他の点でそれなりに混沌がありまして、どちらが明晰判明かは一概には言えません。次回かそれ以降、その「音ルール」について少し考えたいと思います。

*1:回文は必ずしも仮名書きだけじゃなくて、ローマ字表記とか、漢字仮名混じりとかもあるわけですけどね。ここではいちばんノーマルな回文で考えます。