(53) 本気の度合い

身が入らんねん。3年来歯噛み。
 [みがはいらんねん さんねんらいはがみ]

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先日、回文界の著名人(だといいなあと私が思っている方)、kawaharさんとNAOYOさん(福田尚代さん)にお会いできるという、素晴らしいにも程がある機会に恵まれました。kawaharさんとはネット上ではお付き合いがあったものの現実世界で会ったことはなく、またNAOYOさんは、すでに伝説と化している(といいなあと私が思っている)今は消滅した回文サイト『硯海』の作者として、私が一方的に知っているだけ、という状態だったのですが、そのお2人と直接お話できる時が来るとは。いやはや。幸せすぎます。

美術作家であるNAOYOさんが展覧会を開かれるというのを私が偶然に知って、それにkawaharさんを誘って一緒に行ってきた、というのがいきさつです。回文のこととなると行動的な私。画廊なんて普段の生活からは縁遠すぎて、しかも自由が丘なんてとこだったもので、普通なら敬遠して絶対行かなかったはずですからね……。(私みたいな場違いなのが行ってしまったら、画廊の方も困るんじゃないかと危惧していましたが、温かく接して下さってありがたかったです。画廊関係者の方、特にMさん、どうもありがとうございました(ここ読まないだろうけど)。)

ここでお2人の回文の紹介なぞを恐る恐るしておきます。仮にお2人が回文界の著名人であったとしても、ここを読んでいる人の8分の7(=14人くらい?(根拠なし))は回文界の方ではないと思うので。

……と言ってここにお2人の回文の特徴や相違点などを詳述する予定だったのですが、遅々として筆が進まなかったので、大幅カット。大雑把に言うと、お2人の回文は方向性が根本的に違っている、という主張をしたかったのです。kawaharさんの回文は、「回文」として読まれるべき回文であり、またロジカルに読まれることを期待されている回文だ、と言えそうで、一方NAOYOさんの方は、単純に言えば「詩」として読めるもので、意味から解放された不思議な言葉世界を感性で感じとるような読み方が期待される回文、と言えそう。こんなんでいいんでしょうか。単純化しすぎか。

実を言うと、(51)に並べた「回文を作る目的」の1つ目はkawaharさんの回文のことを考えながら書いていて、2つ目はNAOYOさんの回文が頭にありました。(51)に限らず、このブログを書くとき、kawaharさんやNAOYOさんの回文を意識していることは結構多いです。やっぱりお2人の回文についてはちゃんと書かないといけないなあ。kawaharさんの方はまだいいとして、NAOYOさんの回文を語るには詩的センスが足らなすぎるのが問題。

とまれ、私の中の大スターとお話しできて、感激すると同時に、多くのものが得られました。とても有意義な時間でした。一番心に残っているのは、回文へ向き合うお2人の姿勢、本気の度合い。「仕事を辞めたのでもう回文しかない」とか(!)、「回文に専念する為に仕事を辞めた」とか(!!)、ああ、ついつい冗談ではないかと疑ってしまった私はまだ甘いのでしょう。「回文のために山篭りする」とかね。私も回文とは真剣に付き合ってきたつもりでしたが、こういう言葉を聞くにつけ、越えられない壁、決定的に自分に足りないものの存在をひしひしと感じました。

それにしても回文、奥深く、恐ろしい!