(166) さらに七七

船影とひそかな波の伝ふ夕 断つのみな仲添ひ遂げ叶ふ
[ふなかげとひそかななみのつたふゆふ たつのみななかそひとげかなふ]

                    • -

 はてな人力検索に、次のような質問があります。ここをご覧下さい。

完成度の高い回文を教えてください。
私が考える完成度の高い回文とは以下のような特徴を持つ回文です。
・左右非対称性
  単語としての区切りや漢字表記した時に左右が非対称で一目見ただけでは回文とは気が付きにくいもの
・語感や内容が自然
  無理やり回文にした為に不自然な語感や内容になっていないもの。
・長さは問わない
  長いという事よりも、短くても綺麗にまとまっているもの

 センスのいい質問ですね。この質問への回答と質問者の方の返信が非常に面白いです。ぜひお読み下さい。超有名回文がばさばさ斬られています。たとえば

数学解くガウス

に対しては

「数学解く」という言い方が不自然な気がします。

とのこと。たしかにー。
 そんな厳しい質問者の目に適った回文はというと、

  • 白雪は今朝野良草の葉にもつも庭の桜の咲けば消ゆらし
  • 野茂のパパの物は野茂のママの物。しかし野茂のママのものは野茂のパパの物。
  • をしめどもついにいつもとゆくはるはくゆともついにいつもとめじを
  • 長き夜の遠の眠りの皆目覚め波乗り舟の音の良きかな
  • イタリアで暮らし楽でありたい

 なんで「野茂……」がチョイスされたのかなあ。「左右非対称性」におもいっきり違反してると思うんですが。
 まあそれはさておき、興味深いことに、5つ中3つが短歌なんですね。短歌だと、リズムよく「綺麗にまとまっている」ことは確かだし、「左右非対称性」もほぼ自動的に保証されるので、質問者の方の提示した条件を満たしやすいんだと思いますが、もうひとつの条件「語感や内容が自然」はどうなのか。ちょっと考える必要があります。
 たとえば江戸時代の回文短歌

白雪は今朝野良草の葉にもつも庭の桜の咲けば消ゆらし

について。意味は「白雪が、今朝は野草の葉に積もっていたが、庭に桜が咲くと消えるらしい」ってことでいいんでしょうか。なんだか綺麗ですが、これって、日本語としてほんとうに自然なんですかね。「葉にもつ」という言い方が自然なのかどうか。江戸期には自然だったのかもしれません。私には分かりません。「数学解く」はダメで「葉にもつ」はいいのだろうかなあ。分からん。この回文が自然な日本語であるかどうかを判断するには、それなりの教養が必要であることですよ。
 また、

をしめどもついにいつもとゆくはるはくゆともついにいつもとめじを

平安時代の有名な回文短歌です。意味は、たぶん「惜しんでも結局いつも行ってしまう春は、悔いても結局いつも止められないのであることでありますよ」的な感じでしょうか。テキトーです。よく分かりません。しかも、平安期に作られているのなんて、自然な日本語なのかどうか私にはまったく判断不能です。質問者の方のコメントも

良く意味はわからないですが、よさそうな感じです。

となってます。えー。
 これって、短歌という形式によって、語感や内容の不自然さがカモフラージュされうるってことですよね。短歌の持つ風雅とか権威とかが、回文をそれっぽく見せているのだと思われます。これは便利ですね。ふつうなら「ワケ分からん」なはずの回文でも、短歌の威を借りてそれっぽく見えるかもってことで、素晴らしい技ですなあ。上手く使えるとよいですね。
 そういうわけで、上掲の、意味不明で日本語の崩壊している拙作も、それっぽく見えてしまう可能性があるかも。ないか。