(115) 回文と濁点

「いさ、投け、積んてく?」 「ダメ! 濁点つけなさい!」
 [いさ なけ つんてく だめ だくてんつけなさい]

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 今回は濁点・半濁点の話です。

 世の回文をいろいろと見てみると、「濁点・半濁点は無視して考えてよい」というルールがかなり一般的であることが分かります。このルールだと、
  誰が憑かれた [だれがつかれた]
などが回文になります。

 Wikipediaの「回文」の項を見ると

日本語回文のルールとして、濁音、半濁音、促音、拗音は清音と同一として考えることが多い。すなわち、「は行」と「ば行」と「ぱ行」、「つ」と「っ」、「や」と「ゃ」などは逆から読んだ際に発音が入れ替わっても問題はない。ただし、回文作家の中にはこれを嫌い、発音まで完全に回文にすることにこだわる者もいる。

と書いてあります。「問題はない」って言い切ってるのすごいなあ。あと「発音まで完全に回文」ってとこ気になる。発音なのか。まあいいけど。

 「が」は「か」の字に濁点が付属品としてくっついているものだと思えないこともないので、この2つを同じ文字と見なすというのは、理屈は立ちますね。

 また、江戸以前の古い回文を見ると、ことごとく「か=が」等々となっているので、歴史に根拠を求めることも可能です。たとえば、有名な宝船の回文

ながきよのとをのねぶりのみなめさめなみのりふねのをとのよきかな
(長き夜のとをの眠りの皆目覚め波乗り船の音のよきかな)

は、「か=が」等々で作られてますよね。昔からそういうルールだったんだから今もそうしよう、というのは尤もな話です*1

 このブログでは、濁点無視ルールを使った回文は1つも出していません。今後は分かんないけど。濁点を無視するのって、作りやすくなることは確かですが、回文の面白さの肝である「逆読みが同じ」というところから少々遠ざかることもまた確かで、そのハンディを乗り越えてよい回文を作るってのは、ちょっと私には難しい芸当です。

 皆さんはいかがお感じでしょうか。

*1: ただ、この「歴史に根拠を求める」のは、音ルールで考えるか文字ルールで考えるかで立場に少々差が出ます。
 音ルールで考えると、「か=が」は、「清音と濁音は違う音だけれど、その2つの音を同一視しよう」というルールなのだと捉えられます。昔から、「か」の音と「が」の音は回文では同じ音だと見なしてきたので、今もそうするのが自然である、という論理になります。実に正しい理屈だと思います。
 文字ルールで考えてみると話が変わります。昔は、濁点を表記しないのが一般的だったわけですから、上の回文の仮名表記は、当時は
  なかきよのとをのねふりのみなめさめなみのりふねのをとのよきかな
だったはずです。つまり、当時の標準的な表記法において、完全な文字ルール回文になっています。……何が言いたいかというと、文字として「か」と「が」が同一視されていた、わけではなくて、当時は本当に同じ文字で書いていた、ということです。だから、文字ルールを基準にして、歴史を根拠に「濁点を無視」というルールを正当化するのはちょっと無茶です。
 まとめますと、歴史を根拠にして濁点無視ルールを正当化するには、音ルールの立場から考えるべきである、ということでした。……だから?
 いや、濁点無視って、いかにも文字の上でのルールだよなって思うけど、歴史を持ち出して説明しようとすると、音ルールじゃないと説明がつかないってところが少々トリッキーかなと。そうでもないか。